福沢諭吉と英語 後編

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江戸へ

江戸の中津藩邸で蘭学塾を開くので講師をせよというお達しで、当時23歳の諭吉は江戸に出ることになった。大坂時代に見下していた江戸の学者の実力をためそうと、原書のむずかしいところをピックアップして、わざとわからないふりをして質問した。学者先生と呼ばれている人たちがやはり読み間違えるので安心したらしい。

 

翌年、開港したばかりの横浜に行った諭吉は衝撃を受けた。外国人たちにオランダ語が通じず、看板も張り紙も一切読めないのだ。それが英語なのかフランス語なのかもわからず、がっくり肩を落として江戸に戻ってきた。

 

英語

数年間死にもの狂いで学んできたオランダ語が時代遅れになり、これからの時代は英語を知らなければ洋学者としてどうしようもないと考えた諭吉は、早速英語を学ぼうとした。蘭学を学んだ仲間にいくつか声をかけてみたが、英語の勉強法が確立してなかったり、どうせ英書はオランダ語訳されるからそれを読めばいいと考えていたりで断られた。オランダ語と英語は全く別物だと思われていて、これまで数年間必死に水泳をやってきたのに木登りを始めるようで決断が難しかった。

 

英語を知っている人を探すと小石川に森山という人がいた。毎朝出勤前であれば教えようということになり、鉄砲洲(現 中央区湊のあたり)から小石川まで通った。2か月ほど通ったものの、先生が忙しすぎてほとんど学ぶことができず、少し発音を知っているぐらいだというので諦めた。

 

横浜で薄い蘭英会話の本を買ってきていて、自分で読もうとしたけれど辞書がなかった。九段下の蛮書調所(洋学を研究する幕府の機関)に辞書があると聞いて入門した。英蘭辞書を借りて帰ろうとしたら持ち帰りはだめだという。鉄砲洲から九段下まで毎日辞書を引きにいくのも馬鹿らしい話なので一日でやめてしまった。

 

特に苦労したのは発音で、英語を知っていればそれが子どもでも漂流人でも探し回って教えてもらった。英文を一語一語辞書を引いて訳していくと、ちゃんとオランダ語の文になることを発見したので意味を取るのにはそれほど苦労しなかった。最初に水泳と木登りと思ったのは大きな間違いで、オランダ語を読む力は自然と英語を読む力にも役に立つのだった。

 

渡米

翌年、日本初のアメリカへの使節団に同行した。幕府の軍艦「咸臨丸」で37日間かけて太平洋を渡りサンフランシスコに着いた。馬車、豪華なじゅうたんが部屋中に敷き詰めてある、そこに靴のままあがる、春なのに氷がある、男女で踊る、日本とあべこべに亭主が客をもてなして奥さんは座っている、鉄の多いこと、物価の高さなどに驚いた。工業技術などはこれまで本でずっと読んできたことだからそうでもなかったようだ。日本に初めて入った英語辞書は、このときジョン万次郎と一冊ずつ買って帰ったウェブスターだとされている。

 

その後

帰国後、まだ英語を読むことには不自由だった。塾でも蘭書ではなく英書を教えるようにし、英蘭辞書をたよりに勉強し続けた。それから幕府に雇われて外国とやりとりをする文書を扱うようになり、さまざまな文書や原書を読むことで力をつけた。渡欧・二度目の渡米をし、今度は幕府の金もあったので原書を買い集めた。

 

きな臭くなっていく幕末の世の中で、諭吉は著作や翻訳を通じて西洋の文化・思想を紹介した。新政府に勤めるのは断り、蘭学塾を芝に移転したのち慶應義塾と改称、教育に専念した。

 

おわりに

英語を学ぶ道標がまだ何もなかった時代に、それを自ら切り開いていった福沢諭吉のお話でした。今みたいに情報や手段が溢れすぎているのも考えものだなと思ってしまいますね。『福翁自伝』は口述筆記をもとに書かれていて、いろいろなエピソードがもっとおもしろおかしく語られているので、英語を学んでいる人はぜひ自分で読んでみてほしいです。幕末から明治初期にかけての歴史の一面という観点から読んでもおもしろいと思います。なぜか新書で「現代語訳」が出ていますが全く現代語訳する必要がないレベルです。

 

「なぜ勉強するのか」という疑問を持っている人には『学問のすすめ』もおすすめです。現代にもじゅうぶん通用する内容なので。

 

参考文献

新訂 福翁自伝 (岩波文庫)

新訂 福翁自伝 (岩波文庫)

 

 

学問のすゝめ (岩波文庫)

学問のすゝめ (岩波文庫)