福沢諭吉と英語 前編

 

はじめに

みんな大好き一万円札の福沢諭吉について何か書いてみたいと前から思っていました。誰でも名前と顔を知っていると思いますが、何をしたかは案外知られていないのではないでしょうか。実は、諭吉は日本の英語学習の第一人者と言っていい存在です。

 

少年時代

1835年1月、福沢諭吉は中津藩(現 大分県中津市)の下級藩士の息子として大坂に生まれた。父はやっと藩主にお目見えできるくらいの身分で、蔵屋敷で会計に関する仕事をしていた。父は諭吉の生後1年半ほどで病死してしまい、一家は中津に帰ることになる。

 

大坂で生まれ育ったので周りと言葉も違えば着物も違う福沢家、どうしても周りの人とはなじめなかったが、中津人は俗なのだと兄弟で団結して気にすることはなかった。人と違ってもいいという考えはその後の人生に大きな影響を与えている。

 

14・5歳のころ、同年代の人がみんな本を読んでいるのに自分だけ読んでいないことに気づいた。塾へ行き始めた諭吉は、それから4~5年かけて漢書を学んだ。さまざまな本を読み、特に『左伝』が好きで、ふつうの書生は三・四巻で終えるのを、十五巻すべて11回通読しておもしろいところは暗記していたという。

 

殿さまの名前が書いてある紙を踏んで兄に怒られて平謝りしたり、神さまの名前が書いてある札を便所で使ってみたり、お稲荷さんの御神体の石を取り替えてそれを拝んでいる人を見ておもしろがったりと、諭吉は迷信や神仏を一切信じなかった。

 

いちばん納得がいかなかったことは藩の門閥制度だった。幕末に入りかけたころとはいえ封建制度は根強く、才能に関係なく家老の子は家老、足軽の子は足軽というふうだったので子どものころから不満を溜めていた。学問でも腕力でも誰にも負けていないのに中津にいたままでは門閥には勝てない。学者だった父はそのことをよくわかっていて、大物になりそうな諭吉を将来坊主にするつもりだったという。「私のために門閥制度は親のかたきでござる。」

 

長崎へ

19歳のとき、兄にオランダ語の原書を読んでみないかと言われ長崎へ行くことになった。ペリー来航間もないころで砲術がさかんになっていたのだ。特にオランダ語に興味があったわけではなく、窮屈な中津にいるのが嫌でたまらなかったので、出て行けさえすれば何でもよかったらしい。アルファベット26文字を3日かけて覚えて、だんだん読めるようになってきた。

 

中津藩家老の息子奥平壱岐の紹介で山本物次郎という役人の家に住み込み、目の悪い主人に書物を読み聞かせたり、息子に漢書を教えたり、雑用も何でもして過ごした。山本は砲術家で、本を貸したり写したり諸藩から来た人を案内したりと諭吉がさまざまな仕事をすべて主人の代わりにやっていた。

 

どんどんオランダ語を吸収して存在感を強めていた諭吉を、奥平がねたみ始めた。策略をめぐらせ、母が病気だという手紙を地元から送らせて諭吉を中津に帰そうとした。もともと紹介してくれたのは奥平なので、山本にも本当のことを言えずどうしようもなくなった諭吉はだまされたふりをして長崎を出た。

 

適塾

江戸へ行くつもりで諫早から船で佐賀へ、佐賀から小倉へ3日間かけて歩き、また船に乗り明石で降りて大坂まで歩いた。約20年ぶりの大坂だった。兄に事情を話すと江戸に行くことはまずいとなって、大坂で先生を探すと緒方という人がいることがわかった。

 

緒方洪庵の適塾は医学塾で、諭吉は頭角を現して塾長になった。塾での生活は次のようなものである。

朝起きて湯屋に行く→帰って朝飯をたべて夕方まで書を読む→夕食(酒があれば酒も)を済ませて19時ごろ寝る→22時ごろ起きて夜明けまで書を読む→朝食のしたくの音を合図に少し寝る

 

病気になったときに枕をしようと思ったら、そもそも枕を一度も使っていないことに気づいた、というぐらい読書と寝ることのくり返しだったようだ。塾生たちは自学自習と会読で修業をした。課題の本を決めひとりひとりがある範囲を解釈していき、会頭が審査をして白玉や黒玉をつけて評価するのが会読である。

 

会読の準備のためにはまず原書を写さないといけない。塾の蔵書は医学書と物理学書の原書が十冊ほどで、各一部しかなかった。どんなにわからないところがあっても他人に質問をしてはいけないし、質問をするのは恥なので誰もしなかった。辞書もヅーフ(蘭和)とウェーランド(蘭蘭)が一冊ずつあるのみで、会読の前日などは辞書が置いてある「ヅーフ部屋」に5人も10人も集まって勉強していたという。辞書を写本することは塾の良い収入源だったので、自然とそれも勉強となっていた。

 

会読は一六(1と6がつく日)、三八などと日が決まっていて、その結果によって塾生の序列や進級が決まった。会読以外の書であれば先輩が後輩に親切に教えることもあったが、会読においてはすべて自力でやらなければいけなくて、月に6回ずつ試験があるようなものだと諭吉は回想している。昇級していけば自然と塾内の原書を読み尽くすことになり、それからは最上級生だけで会読をしたり、緒方先生に講義をお願いしたりしていたようである。緒方洪庵の講義は緻密かつ大胆なもので、諭吉でさえ「無学無識になった」気にさせられるレベルだった。

 

会読以外にも医塾なので動物の解剖を頼まれたり、本を読んでどうしてもやってみたくなって塩酸・アンモニア製造など理科の実験(器具がないので酒屋のとっくりなどを利用していた)をしたり、遊びやいたずらにも熱心だった。江戸で行われている「出世・生計のための学問」に対して、大坂ではやりたいから・おもしろいからやるという「目的がない学問」だった。立身出世やお金に気を取られてあくせくしていては本当の学問はできないのだ。この時代にはいろいろおもしろいエピソードがあるが、特に好きなものを二つ紹介して前編を終えたいと思う。

 

禁酒失敗

諭吉は少年時代から酒に目がなかった。月代(さかやき)を剃るのを痛がる諭吉少年を母が「酒を飲ませるから」と説得していたほどだ。一念発起して禁酒を始めたところ塾生たちはみんなおもしろがった。ある友人に「何か楽しみがなくてはいけない、酒の代わりにたばこを始めろ」と言われ大嫌いだったたばこを吸い始めてみた。日頃たばこを悪く言っていた諭吉が喫煙者になってざまあみろという気持ちだったのか、みんなきせるを貸したり軽いたばこを買ってきたりしてくれた。

 

禁酒のためと嫌々2週間ほど吸っているうちに、臭くて辛いのがだんだんおいしくなってきた。1か月たってりっぱな「たばこのみ」になってしまったところで、酒のことがどうしても忘れられない。1杯のむとたまらなく、もう1杯、もう1杯とやっているうちに三合飲んでしまった。翌日は五合と元通りになって、今度はたばこを辞めようとしてもやめられなくなり、「両刀使い」に成り果ててしまった。

 

遊女のにせ手紙

手塚という塾生が遊郭通いにはまっていた。「勉強する気があるなら毎日教えてやるから、新地通いはやめなさい」と話すと本人もやる気になったので、違約したら坊主になる証文を書かせた。その後真剣に毎日勉強するのがおもしろくなくなってきた。遊女の名前を調べ、想像で「あのときの約束は」うんぬんという手紙をでっち上げ、女文字が得意なやつに清書させ、書生を脅して届けさせた。宛名を「手塚」でなくあえて「鉄川」にするという手の込みよう。

 

それから2・3日はがまんしていたがとうとう出かけていったので、翌朝はさみを持ってつかまえた。まげをつかんではさみをガチャガチャいわせると「坊主は勘弁してくれ」と泣きついてきたので、酒や鶏をおごらせて「お願いだ、もう一度行ってくれんか、また飲めるから」とひやかした。

 

 

後編に続く

  

参考文献

新訂 福翁自伝 (岩波文庫)

新訂 福翁自伝 (岩波文庫)